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今回は、久留米市にある「石橋美術館」です。
民間の美術館では日本でも有数の施設だそうで、ブリジストンの
石橋財団のものだそうです。広い敷地の中に本館と別館の2棟
バラ園や噴水があって、もう一施設石橋文化会館があります。
美術館の展示品はさすがに世界のブリジストンだけあって、美術館系にはまったく疎い
私でも知っている作品がたくさんあります。
さすがに展示品は撮影禁止なので写す事はできませんでした。

本館です
今回はアプローチとトイレの報告です。 本館は1階と2階の展示室があり今回の展示は2階部分だけでした。

入口ドア自動で約88センチ(開口部)介助型車椅子ベビーカーなどあり

2階フロアエレベーター出口からまったく段差傾斜なし。撮影側が展示室です。
ガラスドアの向こう側を右に曲がるとトイレになります。

ドアはセンサー式で外側と内側にあり開閉します。中は美術館らしく美しく清潔感がありますが、いくつか?のところがありました。中は車椅子で使えるひろさはあるのですが便器の方向が写真のとおりなので、前面と右側のアクセスが出来ず左側のみのアクセスになります。壁に付いた左側のスイッチはウォシュレット真ん中が洗浄ボタン右が非常ボタンです。実際座ってみると、左麻痺の私は、洗浄ボタンまでがやっとで、非常ボタンは精一杯腕を伸ばして届くかどうかです。ペーパーもかなりとりにくい。もし車椅子ユーザーが便器に移乗中転落したら非常ボタンは使う事ができないでしょう。やはりその立場に無い人が考えると、美しくは出来るが目的が達成できない事もあると思いました。

本館を出て別館に向かう途中に、噴水があります。ミニ公園になっていて時期になるとつつじやバラがきれいそうです

手すりの部分がスロープになってます。傾斜は5度程度でしょうか角度計を持っていなかったので大体です。

入口まではレンガの散っちゃ鋳物を埋め込んだようになっているので、車椅子ユーザーで前輪が小さなものを使っている方は、結構不快かもしれません。
中は基本的にバリアフリーになっていますがトイレは本館に比べると一時代前のもののように思えます。

しかし十分機能はしています。ドア幅は片開きのすべてのドアで出入り口トイレともに約88センチはありました。
是非一度いかがでしょうか入場料は特別展の内容によって変わるみたいですが、500円からのようです。身障者手帳を提示すると、介助人1名まで半額です。
付け足しでこんな物買いました

昔懐かしい久留米キムラヤのホットドッグです。 ホットドッグといっても中にはさんであるのは、赤い縁取りのハムです。以前テレビで見て懐かしくなりおうちでオーブンで焼き食べました昔の懐かしい味でした。
とても寒い日が続いています

が皆様はお元気ですか?
今月11日より新しいスタートを始めました。

ここが仲間たちとの夢が詰まった場所です。今年の10月にここがどんな風に変わっているでしょう。
手作りでこつこつと創って行きたいと思っています。
14日作業をしている途中ふと空を見ると・・・・・・・・・・・・・・

なんとV字の雲?が






嬉しくなり携帯でパチッと写しました。頑張ろうって気持ちを新たに出来た嬉しい現象でした。
14日の作業を終え自宅に向かって車を運転していると、携帯電話が歌いはじめました。
ハンズフリーを付けていなかったので、車を止め電話を見ると最近仕事が忙しく体調不良気味の奥様から
何事かと思い折り返し電話をすると電話の向こうで予想しなかった言葉が・・・・・・
東京商工会議所から手紙が来て、11月に受けていた福祉住環境コディネーター2級の結果通知で合格したとの事
私はすっかりあきらめていて7月リベンジの事ばかり考えていたのですが、にわかに信じられずさりとてうそでは無いのでほっとしたやら嬉しいやら、これで自宅等で不便を感じている多くの高齢者や障害者の皆さんのお手伝いが出来るとよろこんでいます。

試験を受けたのは何年振りでしょう。ただこの資格も今は取っただけなので、実務を如何に多くこなして、経験値を上げていかないと意味が無いと思っています。
あけましておめでとうございます。
皆様どんなお正月をお迎えでしょうか?
家族そろって和やかなひと時をお過ごしの方
すでにお仕事頑張ってらっしゃっる方
旅行で楽しんでらっしゃる方
もしかすると、お正月そうそう大変な目に合われている方も
居られるかも知れませんね

今年のお正月は、雪がたくさん降りました。
年明けと同時に、真っ白な世界が現れたのですね

私は今年一年白いキャンバスにたくさんの色を使って絵を描いていきたいと思っています。
昨年は、NPO法人を設立しました。目的は、高齢者や障害者そして子ども達みんなが世話を焼かれて生きていくのではなく、自分たちができる事を行動しながら出来ないところを助けてもらう。
そして自分たちが生かされている価値と役割を常に感じながら生活できるそんな場所を作る事です。
今年はその場所を作る予定です。時期は秋くらいになると思います。
私の考え方を理解していただき行動をともにしていただける方が中心となり、土地も用意してもらいました。
私はその方の思いに報いるべく施設の開設運営に向けて走ります。
場所は佐賀県武雄市です。2011年1月11日のよき日をスタートとして頑張って行くつもりです。
また、このことについては書き綴って行きます。
本年も皆様がご健勝にて、健康作り夢造りができて行く事をご祈念いたします。
2010年もいよいよ終わりです。
この一年たくさんの方にお世話になりまたご心配をかけ感謝の気持ちでいっぱいです。
来年はどんな一年になるのか・・・。
いずれにしても自分が出来ることを,自分のスピードでやっていくだけです。
今まで生きてきたことの反省を含め過ごして生きたいと思っています。
気ままにつづっているブログですが来年もよろしくお願いいたします。
11月鹿島市民会館でPTA佐賀県研究大会がありました。
鹿島の市民会館は建設されてから40年以上経った建物だそうでそれなりに結構古い外観です。

はじめてはいる建物なので、興味津々入って見ると、これがなかなか、よく改装されていました。

左から入口2センチ弱の段差をセメントでフラットにしてあり玄関ドアはオープンに右端の写真はホール内部から玄関ドアの写真です。まったいらです。ホールの玄関側と奥のほうに会場入口があります


それぞれ、2メートル弱の幅があり傾斜は極めて緩やかです2度〜3度くらいに思えました。
更に、写真では下側奥の入口から入ったほうには、建設当時には普通の座席だった12席程度を撤去して
車椅子観覧部分を設置してありました。7〜8は可能だと思います。あえて言えば、安全バー等を設置していただければ安心して観覧できると思います。

もうひとつ、車椅子コーナーのある出入り口の所に、UDトイレが設置してありました。最小限の機能はあり、感心させられました。

左端の写真水洗ボタンは、壁側面へら型プッシュと足ふみ型2種類が設置してあり感心しました。
費用をかけずに最大の効果を良く考えられた改装だなと感心させられました。
今月はじめに、佐賀市にある佐賀地方法務局へ行き、NPO法人の登記手続きをしてきました。
来年に向けて一区切りついた気がします。
勿論、障害者や、高齢者など、佐賀嬉野バリアフリーツアーセンターでやれなかった事
やり残したこと、また新たにやってみたい事を成し遂げるためです。
佐賀嬉野バリアフリーツアーセンターも今月21・22日に行われる第5回全国UD大会で一区切りを迎え
今後の活動がいっそう期待されるところです。
私も約1年半の充電期間を終えてセンターに負けぬようにまたセンターとは少し違う方向で頑張りたいと決意しています。
ただ、活動の拠点は嬉野ではありません。先ほども書きましたが、また違う場所で違う方向から開始します。といっても引越しをする訳ではありません。住まいは現在のまま活動しようと思っています。
詳しくはまたおいおい書いて行きます。バリフリ調査もまた開始しますね^^
皆さんも、寒くなってきましたので体調の管理にはご注意ください。また、ノロウィルスが流行しそうだとの事。
どうぞお元気でお過ごしください。
11月28日試験が終わりました。
何の試験か言っていませんでしたよね。
東京商工会議所が行っている「福祉住環境コーディネーター」
という資格試験の2級です。
約2ヶ月ほど前に思い立って勉強を始めたのですが泥縄です。
結果は来年1月中旬ですが、どうなんでしょう?
受ける前までは何とか大丈夫だろうと思っていたのですがそんなに甘くなかったですよ。
しかしせっかく乗りかかったので、今回だめだったら来年再挑戦しようと思っています。
昨年6月佐賀嬉野バリアフリーツアーセンターを退職しなくてはいけない状況になってから
約1年と半分プータローをしながら色々な事に接してきました。
しかしやはり、きれいごとのように聞こえるかもしれませんが、人のために役に立ち、地域の役に少しでもたって人生を終えたいとの思いが以前にもまして強くなってきました。
行政や大きな組織団体と一緒にすすめて行けば速度は早いのですが、自分自身の心の声を聞きながら進めて行く事は非常に困難でした。わがままなのでしょうが、自分の心の声を聞きながら人生を歩むには、速度は遅くても、
自分で道を作らなければならないと思います。どこまで進めるかはわかりませんが、私自身の速度と思いで進んで行きたいと思います。また来年1月から新しい一歩が始まります。

ブログを放置しています。
読んでくださっている方にご迷惑かけています。
実は、ある資格を取るためその勉強中でその試験が終わるまで
もう少し勘弁してください。
何の資格かって?それは合格したらお知らせいたします。
なにせ五十半ばになると覚えた端から忘れて行くのでどうなる事やら・・・
でもめげずに頑張ってみます。
55歳の誕生日。
相変わらずの生活を送っています。
世の中ツイッターで盛り上がって嬉野温泉では行政までがツイッターを使って情報の発信をしているようです。
それが良いのか悪いのかわかりませんが、たった200か300字の世界で世界とやり取りできるってある意味とても怖い事だと思います。私が古いのかもしれませんが・・・ミクシーはまだ縁がある人たちとのやり取りで、会話が成り立ちます。しかしツイッターはフリー参加し見る事も自由です。
政治家の皆さんも積極的に活用なさってるようですが、私には理解できません。
大衆に媚売っているようにしか見えないからです。いや違うという政治家がいらっしゃれば、身震いがします。
時代は変化して行きます。ネットの世界が格段に進歩し、活用方法も変わっていくのは当然と思っています。
しかし、基本は人と人との対面です。遊びの感覚でツイッターを利用するのは、とてもよい事と思いますが、思想の伝達や、営業で使うのは、正直言って短絡的な上滑りな手法だと私は思います。
フォローしているフォローされているその数がどういった意味を持っているんでしょう?
一日見なければ私なんて会話見えなくなる。ツイッターに張り付いていつも携帯カチカチ
携帯の奴隷ですねw。
まあお好きにどうぞって思うのですが・・・
最近鹿児島県阿久根市の竹原市長に好感を持っています。
欠点もたくさんあるのですが、基本的に彼の考え方には賛成です。
議員は当然日当制にするべきであるし、市役所職員の給与は高すぎます。
特に議員の皆さんには、市民の公僕という意識をしっかり持っていただきたい。
地域、業界代表ではないのですから。
竹原市長ブログ http://www5.diary.ne.jp/user/521727/
皆様にはご心配をおかけしました。
やっと落ち着いてきまして、後は49日法要と納骨です。
相続の手続き全部自分でしましたが、こんなに大変な事とは思いませんでした。不合理と感じる事もあります。
そのうちこの件についてはまた書きますね。
さて、今回は超身近な場所です旅行記というよりもトイレ紹介です。
嬉野町にみゆき公園という場所がありますがそこの入り口駐車場には古いトイレしかありませんでした。
しかしつい最近新しいトイレに立て替えられましたのでご紹介です。あいにくカメラを持参していなかったので携帯画像で写りがあまりよくありません。

トイレのすぐそばに車椅子用駐車場が設置してあるのですが残念な事に屋根が付いていないので雨が降ったときは大変ですね。

写し忘れてしまいましたが、ベビーベッドの左横に洗面台があり大きめの鏡が付いています。
オストメイトは簡易型ではなく標準型が付いています。建物右側が女子トイレ洋式和式設置
左側男子トイレ

でした。
父が亡くなって、2週間になります。
大正生まれの父は、第二次大戦終了時に北九州の芦屋航空隊飛行場の週番士官でした。
当時、血気にはやった下士官たちと燃料、弾薬等を英彦山に隠し最後の抵抗を試みたそうです。
結局、その行動は儘ならず、そのおかげで私がいるのですがその後不本意な人生を過ごしいいことも悪いことも飲み込んで、86歳の人生を全うしました。
また父のことは書いてみたいと思いますが、なくなった後の処理がとても大変です。
私の家は財産があるわけでもなく、家と預貯金はすべて母に継いでもらうように
兄の了承も得て手続きをしています。しかし法務局に行くと「何で素人のお前が手続きするの」といわんばかりの役人がいろいろとややこしいことを言ってきます。
司法書士等に頼めば簡単なんでしょうが、くやしいので自分で最後までやろうと思っています。
車の廃車や、その他もろもろで自宅と実家を行ったりきたり。
もう少し頑張ります。一段落したらまた報告しますね。
皆様へ、しばらくブログ更新せずご心配をかけています。
実は、3月ころから実父の体調が悪く、自宅療養しておりましたが
5月8日に他界しました。
旧日本陸軍将校であった父らしい生き方と去り方であったのですが、この世の
修行を終了しあの世に戻って行きました。
86歳でしたが、自宅で最後を迎えました。
人生を全うしてくれたので、特に悲しさは無いのですが、寂しさは感じます。
しかし感じている暇は無くやるべきことが沢山あり、まづそのことで頭がいっぱいです。
落ち着いたらまた詳しく書きますが、母のフォローやさまざまな手続きに追われ
なかなかブログを書く時間が出来ません。
どうぞ、ご勘弁を・・・。近いうちにまた再開いたします。
私のむかし(少年の日)原画展が始まります。

森田まさひとさんという方で、まだ私も直接お会いしたことが無いのですが
私のお友達の千鶴伽というシンガーソングライター(旅人シンガー)のご紹介です。
この千鶴伽(ちづか)という歌手は実に素敵な方で、まじめでいいかげん、大胆で臆病、繊細で大雑把
歌手であり教育家(教員資格を持った家庭教師です)一言で言うと「人間」です。
で、この方を通じて私はたくさんの人との出会いを頂きました。沖縄の人 九州の人 北海道の人
その中で、一番新しい出会いをさせて頂いた方が今回ご紹介する森田さんです。
先に書きましたようにまだお会いしたことが無いのですが、ご自分の子供時代の昭和30年代の絵を一生懸命描いてらっしゃいます。また、「童謡復活運動」をなさっているそうで、私と底辺が同じなのです。

送っていただいた絵ですが、どれも懐かしい気持ちでいっぱいになります。
このような絵を描き続けられて100点それを記念して今回個展を開催されます。
場所は柳川だそうです。是非可能な方は一度見てみてください。
その時期に千鶴伽さんが、童謡のCDを出せればなーと今頑張っておられます。
彼女は、この社会の隅に忘れられかけようとしている老人の方々や今から次代を背負って行く子供たちに
たくさんの童謡や昭和の歌コンサートのプレゼント活動をされています。是非素敵なCDを出していただければと期待しています。
ミルクやカタカナ料理にJポップもいいけど、味噌汁や焼き魚と童謡もいいのかなーって思ってしまう私で す。
今回の記事は6月5日まで何度かコピペしてアップしますのであしからず。
給食と牛乳のことを少しご紹介しましたが、
学校給食ってどうして始まりどんな経緯か、過去に調べました。
別のところで調べた事と同じようなことを違うところで見つけました。
また、転載です
学校給食の裏面史 「アメリカ小麦戦略 No.2」(前編) 鈴木猛夫
アメリカの農業は歴史的に見ると戦争と戦後の復興援助を契機として発展してきた。イギリスからの独立戦争、南北戦争、第一次大戦などで大量の農産物が消費されアメリカ農業興隆の一因となった。第二次大戦中アメリカでは農業従事者の約500万人が兵役につき、人手不足を解消するため農業の機械化、大型化、省力化、肥料増などが一段と進んだ。戦後は農業機械代金支払いのため常に一定量の生産を維持しなくてはならず過剰生産が慢性化していた。国内消費だけでは消費しきれず常に輸出が必要であった。
戦後、疲弊したヨーロッパの復興計画いわゆるマーシャルプランにアメリカは総額120億ドルの巨費を投じ大量のアメリカ農産物がヨーロッパで消費され1952年に大成功のうちにこの計画は終了した。51年から始まっていた朝鮮戦争も53年には終結し、同時に農産物のハケ口が無くなり過剰在庫は深刻化した。1950年代小麦、綿花、乳製品などの農産物の在庫総額は2兆円に上り、倉庫代だけで一日2億円以上、倉庫不足から大戦で活躍した多くの輸送船が倉庫代わりに使われたり、更には路上に野積みするなどで余剰農産物対策は急務であった。
当時国際的に小麦価格は低迷しカナダ、オーストラリアなどが価格ダンピングで輸出攻勢をかけアメリカの小麦輸出は困難な状況にあり何としてでも他国より有利な件を提示し余剰農産物の滞貨を処理しなければならなかった。
学校給食の裏面史 「アメリカ小麦戦略 No.2」(後編) 鈴木猛夫
アメリカでは、農民票が大統領選挙を左右するとも言われるほどで、早急な対策が大統領に求められていた。当時の大統領はカンサス州の農民出身であるアイゼンハワーであった。朝鮮戦争終結翌年の54年彼は余剰農産物処理法(正式名称農業貿易促進援助法)を成立させた。これは敗戦で疲弊した国にアメリカの余剰農産物をその国の通貨で売却し、代金はその国の経済復興に当てる、というものである。つまりドルが無くても円でアメリカ農産物が購入でき、しかもすぐ払う必要が無く後払いでもいいという有利な条件であった。いかにアメリカは余剰農産物処理に苦労していたかが分かる。
ところがこの法案の本当の狙いはそれだけではなかった。売却代金の一部をその国の市場開拓費にアメリカが自由に使うという条件付きだったのである。ここにアメリカの真の目的があった。
この法案でアメリカは日本への農産物大量輸出が容易となり、学校におけるパン・ミルク給食が定着し、食の洋風化の第一歩が始まったのである。学校給食はアメリカ側の農産物事情によるところが大きかったという点をしっかりと見る必要がある。
巨額な市場開拓費によってキッチンカー、パン職人育成、パン食普及宣伝などの諸活動が活発に行われることになり大量のアメリカ農産物が日本に輸出され急激な食の洋風化は一気に進むことになったのである。それについては次号で詳しく取り上げたい。
学校給食の裏面史 「アメリカ小麦戦略 No.3」(前編) 鈴木猛夫
昭和21年から始まった学校給食は八大都市では定着してきたものの、その他の地方都市では定着が遅れていた。食糧不足、資金不足の日本としては何としてもガリオア資金やアメリカからの無償援助小麦が頼りであった。
これに対しアメリカ側は「日本政府がパン給食を今後とも強力に推進するならば無償援助を続けよう」という条件を持ち出し、これに対し日本側は25年10月「学校給食は重要な役割を果たしている。日本政府は将来この育成に努力を払う」とアメリカ側に回答した。閣議で決まった了解事項であるだけに重みがあり、以後日本側はこの約束に縛られることになった。アメリカは意図的に日本側にパンとミルクという学校給食のレールを敷いたのである。26年2月から地方の都市部でもパンとミルクという完全給食が拡大された。
ところが同年6月日本はサンフランシスコ講和条約を結び形の上では占領時代に終止符を打ち独立国となった為、同時にガリオア、エロア等の非占領地援助物資のみならずアメリカからの無償小麦提供は終結した。アメリカとの間にパンとミルクという学校給食の継続を約束している日本政府は大いに慌て、それらの食糧を早急に手当てする必要が生じた。
日本政府は全額国庫負担で小麦、ミルクをアメリカから購入して学校給食継続をはかった。しかし財政窮乏の折大蔵大臣池田勇人は国庫補助打ち切りを主張し紛糾した。結局文部省の抵抗にあい翌27年小麦粉のみ半額国庫負担になった。
学校給食の裏面史 「アメリカ小麦戦略 No.3」(後編) 鈴木猛夫
そのため給食は有料となり父兄の負担増加で給食辞退者が全国で210万人となり「学校給食の危機」が叫ばれた。翌28年には台風13号の被害に加え稲の大凶作が続き自給食糧が危うい時期であった。欠食児童救済は大きな社会問題に発展した。翌29年5月には学校給食法が成立し、パン・ミルク給食路線が確定した。
この昭和25年から29年の学校給食法成立までの過程でアメリカは官民両面から日本側にパン・ミルク給食推進の水面下での工作を続けた。さらにアメリカは余剰生産物を大量に日本国内で消費してもらうにはパンとミルクの給食を農村部にも広げるべきだと判断した。
昭和32年アメリカは文部省所管の財団法人・全国学校給食連合会との間に学校給食の農村普及事業の契約をした。連合会にはアメリカ側から活動費として5735万円が支払われ、農村部の小学校にパン・ミルク給食普及の活動が開始された。学校の教師、父兄等を集めてパン食の効用についての講習会が頻繁に開かれ昭和37年までに参加者は23万人にのぼり、農村部でのパン・ミルク給食普及の土台は作られていったのである。
この時期アメリカのベンソン農務長官も学校給食の視察に訪れている。アメリカはいかに余剰生産物の売り込みに懸命になっているかをアメリカ国民、特に農民たちにアピールする必要があったのである。それが選挙での票につながるのである。パン・ミルク給食定着までの過程を見てくるといかに日米の利害が一致した結果であるかがよく分かる。
転載終了
過激な言い方とは思いますが、学校給食は子供たちの飢えをしのぐだけで、体のことなんてどうでもよく
小麦を売りたいとのアメリカの意を受け、金をもらった日本の政治家が推進して行った。という事ですね。
結局今の栄養学の原点はここにあるわけです。日本人の伝統食は、肉や牛乳ではなく、米や野菜に魚介類海藻類だったのです。
今から二十二〜三年前「これからの日本は、殺人事件がニュースにならない時代になるよ」と聞かされたことがあります。まさにそんな時代に入っていますよね!
転載シリーズはこれでおしまいです。
学校給食と牛乳
引用開始
学校給食と牛乳 清水 修
昨年 8月、文部科学省スポーツ・青少年局学校教育健康課学校教育係長の川田耕二氏(当時)に直接お会いし、お話を伺った。下記の会話は、本誌掲載を前提に伺ったそのときの話を、清水の責任でまとめたものである。
●牛乳について
清水 牛乳は出さなければならないと思ってましたので、「牛乳は出さなくても良い。それも 1日や 2日だけではなく、年間を通じても」という事を電話でお聞きし、とても驚きました。今回の通達からではなく、最初からだったわけですね。
川田 学校給食というのは、市町村でどのように実施するか、どの食品を使うかを決めるんですね。国はあくまで学校給食のモデル・標準的な姿を示して参考として頂きたいという形なわけです。制度的には、以前からどのようにやってもらっても構わないんです。極端な話、設置者(学校の設置者。都道府県や市町村、学校法人の事)が責任を取る形ならば。牛乳を出す出さないという事は、設置者が決める事です。
清水 国としての関与は出来ないという事ですか。
川田 設置者が設定するに当たって、こうしなければならないという事は言えません。ただ、或る事の意味とか意義や良さはお知らせできます。牛乳がなければ給食と認められないという事にはならないです。
清水 促進する事はあっても、「ねばならない」という事はないわけですね。
川田 (学校給食法が成立した)昭和29年から制度的にそういう形でやっています。
清水 より分かりやすくする為に出したのが今回の通達でしょうか。
川田 これまで我々がお伝えしてきた意義が定着して来たという事から、 地域の特性とか独自性をより一層出して頂きたいという事で、標準食品構成表を外そうではないかとなったわけです。我々は給食の狙いや趣旨についてお知らせするだけで、細かい事、例えば給食に何を付けるとか何グラム出すとか、そういった事は設置者の判断です。子供たちと向き合うなかで、設置者が柔軟に対応して頂ければ良いのではないかと考えて、今回、標準食品構成表を外しました。
清水 「牛乳がない給食は学校給食とは呼べない」というのは誤解だったわけですね?
川田 誤解ですね。これまでの歴史を振り返ってみれば、食生活が貧困だった時代があります。そういう時代の学校給食には子供たちの栄養の補給という役割がありました。そういう観点から見ると、牛乳は非常に出来の良い優秀な食品でしたので、給食に牛乳があるのは望ましいというお知らせはしてきました。今でも牛乳は非常に栄養バランスの取れた優れたものではあるのですけれど、それを毎日出さなければならないのかと言われれば、組み合わせによって他の食品で代替出来る事もあるのではないのかと考えていますので、必ず毎日出さなければならないというものではないですね。
引用終了
どうして、パンや牛乳が日本人の食卓に当然のように出てくるようになったのでしょうね?
私はどうしても牛乳が体に良いという常識を信じることが出来ません。
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