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私の半世紀6

北九州へ・・・
福岡で小学校2年生の秋まで過ごした中で、特に思い出深い事件があります。

私の兄が、母親の使いで買い物に出かけました。その兄がなかなか帰ってこないので
見てくるように言われでかけました。

近所の、マーケットだったと思います。家を出て広場を抜け道路に出て左にまがると、太陽ストアというマーケットがあります。そこにいくのでしたが、広場に出ようとした時広場むこうにある道路上で兄が人と話をしているのを発見し、「にいちゃーん」と呼びながら広場に出ました、そのとき、がーーんというショックをこめかみあたりに感じ目の前が真っ暗になり。気がついたら病院でした。かかり付けの病院で、両親が私を覗き込んでいました。 

何でも私が広場に出たときちょうど出前をして、店に帰るバイクとぶつかったそうです。

私も怒られましたが、母も父からきつく怒られたようでした。

幸い打ち身程度のことで済んだので良かったのですが父も仕事のとき良くこの店から出前をとってたようで、その場で解決だったようです。

皆さんも飛び出しには注意をしましょうね
そのほか、1年生のとき、おなかの調子が悪く(結構よく下痢ピーやってました)そのときもちょうど下校時にトイレに行きたくなりました。 しかし、当時の学校のトイレは暗く汚くまた、友達に見つかると「ワーイうんこしよう」とはやし立てられたりするので、家も近かったし家まで我慢しようと帰宅を選びました。しかし家まであと少しというところで、我慢できなくなり道路わきの茂みに入りノグソを決め込みました。しかし当時は半ズボンだったのですが、ズボンを下ろす直前に出てしまったのです・・あれが・・・その場にしゃがんだままどうしてよいかわからずじっとただしゃがんでいました。

茂みのわずかな隙間からと売りすぎる人の足元は見えるのですが恥ずかしくて声かけができません。そのうち涙が出てきてその声が聞こえたのでしょう。通りかかった保母養成所のお姉さんが二人やってきて助けてくださいました。私の家に母を呼びに言ってくれて、私は救出されました

そんな思い出を作りながら引っ越したところは、北九州市になったばかりの小倉でした。
やはり刑務所のあるところで、現在は小倉南区となっている北方新町です。ここで小学校の残りと中学校まで住むことになります。

新しい小学校は北九州市立北方小学校です。ここに初登校したときはカルチャーショックでした。
福岡の小学校は児童数650人程度でした。しかしこの小学校は1700人を超えていました。

そして言葉の違い。先生はいつも怒っている様だし、クラスメートからはけんか売られてるような恐怖を感じました。 こんな学校に通うの?って不安になってしまうのでした。


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私の半世紀  5

昭和37年4月 晴れて小学校入学です。行った学校は福岡市立百道小学校。
この百道・・ももち・・と読むんです。

松林に囲まれた静かな環境でした。お隣は中学校その先は海。

現在とは程遠い自然環境でした。

この頃よく遊んでいたのは、千眼寺というお寺の墓地、愛宕神社、福岡刑務所の道場など
愛宕神社は父親に連れられてスケッチをした記憶があります。

で通っていた病院は福井内科現在は、息子さんがあとを継いでいたように思います。
夜に良くお世話になっていました。

愛宕神社の下はすぐ海で、姪浜の「ぼた山」を書いた記憶があります。

「ぼた山」ってわかります?昔炭鉱で石炭を掘る際に出てきた土や石を積み上げて出来た山です。

学校生活はよく記憶に残っていないのですが、給食がおいしくなかったのと、アメリカ人の同級生がいたのを覚えています。

給食は、アルミの食器にコッペパン。 牛乳ではなく脱脂粉乳月に一回ほどココア味。
野菜ソテーは殆ど芯混じり、肉といえば筋だらけの鯨。という記憶だけしか残っていません。

そんな給食でも残すと怒られていました。 ある雪の積もった寒い日に給食が残飯に出されていました。先生から誰が残したかを問われても誰も名乗り出ませんでした。

結局裸足で雪の上に全員立たされました。
結果どうなったかは覚えていません。

それと、アメリカ人の同級生父親は米軍の軍人もう日本にはいないと思います。
妹は、後日モデルをやっていたようです。

みんなから事あるごとにいじめられていました。構内はいたるところに松の木があったので
「や~い!台湾バナナあっちいけっ!!」といわれながら松ぼっくりや松の葉投げられたりしていました。 私は彼の家にいつも遊びに行っていたので、何人かの友人とかばっていました。

                 s-PHOTO031-1.jpg

講堂の前での集合写真。1クラス50名です3クラスまであったと思います。
この学校で2年生秋まで過ごし、昭和39年に北九州小倉に引っ越しました。

福岡で過ごした第一期の時代が終わりです。




私の半世紀 4  保育所

昭和36年学校へ行く前に1年間保育所に行きました。 その頃は、どちらかというと今の保育園のイメージと違い、幼稚園よりも一段下のレベルという認識だったと思います。もしかしたら違うかもしれませんが、当時の母親たちの会話はそうだった様な気がします。
私は、この頃アレルギーの状態であり、小児喘息が起こりだしていました。食べ物の思い出は、肉、卵牛乳などの、動物性タンパクは一切バターやチーズなどもだめで、魚も、白身を焼くか煮るかしたもの、を時々食べていたように思います。

通常は、豆腐、納豆、おから のり こんなものだったでしょうか。

ところで、私が通ったのは、歩いて10分ほどのところにあった、松美保育所という福岡県立保母養成所の付属施設でした。

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左が勉強風景               右が昼食です

この頃は、ようやく家庭にテレビが、置かれ始めた頃なのですがこの保育所にはテレビが設置してありました。しかしあるとき保育所に泥棒が入り、テレビを盗まれ大騒ぎになったことを覚えています。

警察から何人も来て、諮問を取ったり足跡を調べたりしていました。 しかし私たちは、特に指紋の検出方法など知らないので、テレビケース(当時テレビ貴重品では木の箱に入れて保管し、見るときに扉を開けてみていました。)についていた銀粉をなんだろうこれと思いながら、触りまわっていました。
これが犯人を捕まえるための、操作の手段と知ったとき、自分も触っていたのでつかまるのではないかと不安になったのを覚えています。

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テレビの時間です              保母さんの卵さんたちの実習風景

この卵さんたちは、今70才近くくらいにおなりですね、どの様な人生を過ごしでしょうか
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この頃の冬です。雪がたくさん降っていました。市場の魚屋のトロ箱の底にお寺の裏山から採ってきた竹を割って底に打ちつけそりを作って遊んでいました。
右の写真は現在の福岡空港、当時は板付飛行場といって、米軍と共用の基地でした。後ろのジェット機は米軍のF-104スターファイターです。基地祭での写真です。こうやって遊んだり出かけた後は大概、熱を出していました。この頃から喘息のように咳が出ていました。

      P4.jpg
保育所のお別れ遠足のときの写真です。私は後列右から7番目、行った先は大宰府園でした。
バスはまだボンネットバスでしたよ。大宰府園は今でもあるようですが、このとききり行っていないと思います。






      





私の半世紀  3 第一期福岡の頃

私は、54年の人生の中で、福岡市に3度暮らしました。
最初が昭和32年から39年まで7年間。2度目が昭和53年から7年間。そして、人生の転機のひとつになった平成15年の4ヶ月間。 福岡市も様々な移り変わりがありました。

IMG_0001.jpg
ちっこい方が私です。昭和34~5年ころ。百道の海岸右の端黒っぽく一文字に見える部分が、西公園です。

写っているあたりの場所は現在はちょうど、よかとピア通りのあたりになります。
海の部分に、福岡市博物館、RKB毎日放送、TNCや 九州医療センター、福岡ドーム、タワーなど一連の、建物群が立っていることになりますね!

下の地図の赤で星印をつけたあたりです
IMG_0003_20090925151441.jpg
そこから上に当たる部分が海でした。
ここが将来、現在のようになるとは、夢にも思っていなかった時代です。

近所とのつながりは、この時代とても深く、地域全体がひとつの家族のようでした。
近所のおばちゃんがこの百道の浜で、磯のりを取ってそれを集め、板のりを作ってくれたりしていました。

近所に太陽ストアーというマーケットがあり買い物はそこか、藤崎商店街。さらに歩いて西新商店街。

この頃は、まだすべて計り売りで、買ったものは殆ど新聞紙にくるんでもらっていました。
なので新聞紙を適当な大きさに切ったり袋を作ってスーパーに売りに行く内職のような、仕事もあったようです。

私の家の庭裏はすぐに千眼寺というお寺の墓地で庭から墓石が見えていました。 で、当然この墓地が私たち子供の遊び場であったわけです。 墓地というのは、かくれんぼをするにはもってこいの場所で、よく遊んでました。

夏の夜には、火の玉も良く見てましたよ。

遊んではすぐに熱を出して寝込んだり、元気になったと思ったら、喘息の発作が出て病院にいったりという時代です。

私の半世紀 2  生まれ故郷を離れて

私は、熱を出したり、湿疹が出来たりしながら、体調が良いときには
明石城に遊びに連れて行ってもらったりしていたようだ。

さて、昭和32年春父親の転勤で九州福岡に引っ越す。
記憶には残っていないのだが、神戸から夜行列車で博多まで行き
落ち着きのない私は、車中を走り回り知らない人たちに愛想を振りまいていたようだ。

住んだ所は、福岡市西新町藤崎冬至は福岡の西のはずれ、現在は一等地である。
ここに昭和39年秋まで住むことになる。

場所は現在の西警察署の辺り。路面電車が通る国道202号線から海側へ行ったところで
現在の「よかとぴあ通り」が海岸線だった。

私たちは、父親の仕事の性格上刑務所に隣接された宿舎に住んでいた。

現在と違い、セキュリティのレベルは低く、停電になった(昔よくあったんです)
台風が来た、火事が近くで起きた、囚人が脱走したという度に、出かけていました。

つまり家族が心細くなる状況が起きたときには父親はいなかったのです。
西鉄の路面電車の料金が、博多駅まで(今の博多駅とは違う場所にありました)
5円だったと思います。

私は相変わらず病弱で私の病院代だけで、父親の給料の半分以上だった。
このころ西鉄ライオンズというプロ野球球団があって強かった。
平和台球場まで、良く見に行った。

                                  次回へ・・・・

私の半世紀1

今日から、恥ずかしながら私の半世紀について書いてみます。
どうしようか迷ったのですが、自分自身を立ち止まって振り返ってみる時間が必要かなそして
読んでいただいている皆さんに少しでも、何かの糧になればと思って、はじめます。

何回で終わるかはわかりませんが、時間があるときに読んでやってください。



私の半世紀  第1部   生まれ故郷 

生まれ故郷というのは、懐かしくもあり、そこに幼馴染がいて思い出の風景があり
そして心のよりどころというのが一般的なイメージではなかろうか。

しかし、私には生まれ故郷の思い出というのは、まったく記憶にない。

私は昭和30年兵庫県明石市西大久保という所で生まれた。

夏の暑いとき産婆さんによって自宅でこの世に出現したそうだ。

ちなみに私の兄は昭和26年長崎県佐世保市の市民病院で生まれている。

私の父の職業は法務省矯正局法務事務官・・簡単に言えば刑務所の看守であった。

国家公務員なので当然全国規模で転勤がありその結果、兄と私がまったく違う場所で出生したのである。

この生まれ故郷を私は2歳半のとき離れるのであるが、でそのときまでの記憶は残っていない。

両親は、ともに佐賀県の出身である。大正生まれの今年88歳になる父は、太平洋戦争中召集をされ
大日本帝国陸軍に入隊 終戦は福岡県の芦屋航空隊の週番士官として迎えたそうだ。

戦時中の話はずいぶんと聞かされた。

特に、東京大空襲があった後、遺体処理に派遣された際の様子は現在でも夢に出てくるそうだ。
真っ黒焦げになっていて手足を持って運ぼうとするとずるっと剥けてしまったり遺体をひっくり返すと
下から子供の遺体が出てきたりなど・・
絶対にアメリカ人は許さないと思ったそうだ。

おっと、父母のことは改めて書くとして、私を生んでも母は母乳が出なかったので、私は粉ミルクで育った。

ずいぶん後で母から聞いた話だが、私が生まれた年生まれた地域で、ある大事件が発生していたのである。 森永ひ素ミルク事件である。

 森永の粉ミルクのうち徳島工場で出来たミルクにひ素が混入していた。詳しくはこちらを→http://www.hikari-k.or.jp/jiken/jiken-e1.htm

後日母親が自宅に保管してあった粉ミルクの空き缶をひっくり返してみると、該当するロット番号が書いてあったそうだ。

事件が明るみになっても、国家公務員であった我が家は、特別な変化がなかったわが子の様子から、現在とちがい被害者ですと手を上げることができなかった。

この事が後の私にどの様にか、影響を及ぼすことになる。

生後1才前くらいから、皮膚湿疹が出来病院にいくと、小児ストロフスと診断された。
しかししかし、全身に発症し薬を使っても収まらず私が掻くのをやめないので、
縄を持ってきて後ろ手に縛られる。

それでも、私は体全体をひねりながらかきむしり、血だらけになっていた。
母も父も大変だし辛かったと思う。

熱を出し夜中に病院に行くことも度々だったそうだ。

その後の私は、高校生まで薬と病院にまみれる事になる。














プロフィール

小池良三

Author:小池良三
1955年兵庫県明石市生まれ
しし座
B型
現在 左半身麻痺
家族3人

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